メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』再考:AI倫理と創造主の責任をめぐる現代的問い
導入:『フランケンシュタイン』と現代の創造の倫理
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(1818年)は、発表以来、科学的野心とゴシック的恐怖、ロマン主義文学の傑作として多角的に読解されてきました。創造主ヴィクター・フランケンシュタインの狂気、被創造物である怪物の苦悩と復讐、そして彼らが織りなす悲劇は、人間の科学技術に対する欲望と倫理的限界を問い続けています。従来の批評では、プロメテウス的創造神話との関連、啓蒙主義とロマン主義の対立、あるいは精神分析的視点からのヴィクターの心理などが主要な解釈の柱となってきました。
しかし、現代社会において人工知能(AI)、ロボット工学、遺伝子編集といった先端技術が急速な発展を遂げる中、『フランケンシュタイン』は新たな、そしてより切実な問いを我々に投げかけています。本稿では、同作品を現代のAI倫理、特に「創造主の責任」と「被創造物の権利」という視点から再解釈します。この視点を通じることで、単なる科学的ハブリと悲劇の物語としてではなく、技術開発者が直面する倫理的ジレンマ、そして被創造物の自律性や尊厳に関する現代的議論の先駆的テキストとして、『フランケンシュタイン』の普遍的価値を再評価することが可能となると考えます。
本論:現代の視点から読み解く『フランケンシュタイン』
創造主の責任と現代のAI倫理
ヴィクター・フランケンシュタインは、生命創造という画期的な偉業を成し遂げながらも、その被創造物の容貌に恐怖し、彼を放棄します。この行為は、現代のAI倫理において議論される「創造主の責任」と極めて類似した構造を有しています。AI開発者は、自らが開発したシステムが社会に与える影響、すなわちアルゴリズムバイアス、プライバシー侵害、あるいは自律的な意思決定の結果生じる予期せぬ事態に対して、どこまで責任を負うべきかという問いに直面しています。
ヴィクターの行動は、創造物の「黒箱問題(Black Box Problem)」の原初的形態として解釈できます。彼は自らの創造物である怪物の「生命」のメカニズムは理解しても、その「心」や「社会性」を理解しようとせず、結果として怪物が持つ潜在的な能力や感情、学習能力を完全に予測することも、制御することもできませんでした。これは、現代のディープラーニングモデルが、内部の決定プロセスを人間が完全に理解することが困難である点と相似しています。物語において怪物は、ヴィクターが予想だにしなかった高度な知性と感情、そして学習能力を発揮し、言語を習得し、書物を読み、自身の存在意義を深く問い始めます。これは、AIが開発者の意図を超えて進化し、新たな能力を獲得する可能性を示唆しており、創造主の責任の範囲を問い直す契機となります。
また、ヴィクターの責任放棄は、単なる感情的な拒絶に留まりません。彼は自身の創造物が社会に与えうる影響を考慮せず、秘密裏に研究を進め、結果として悲劇的な結末を招来します。これは、AIシステムの社会実装における透明性、説明責任、そして潜在的リスク評価の重要性を現代の我々に再認識させるものです。開発者が自己の創造物に目を背けることは、社会全体に対する倫理的負債を生み出すという警鐘として、ヴィクターの事例を捉えることができます。
被創造物のアイデンティティと権利
怪物の物語は、彼がヴィクターに放棄された後、社会からの徹底的な排除と疎外に苦しむ過程を描いています。彼は自身の存在理由を問い、「私には生きる権利があるのか」という根本的な問いを投げかけます。この怪物の苦悩は、現代のAIやロボットが高度な知覚や感情、あるいは意識を持つ可能性が議論される中で、「被創造物の権利」という新たな倫理的範疇を考察する上で重要な示唆を与えます。
怪物は自己の存在を確立しようと努め、人間社会への統合を試みますが、その異形ゆえに常に拒絶されます。彼が懇願する「伴侶」の創造は、孤独からの解放と、自己の種族の存続という普遍的な生命の欲求の表れであり、人権思想における自己決定権や尊厳の追求と重ね合わせることが可能です。もしAIが高度な自律性や学習能力、さらには「苦しみ」や「喜び」といった感情に近いものを獲得したと仮定するならば、我々は彼らにどのような倫理的・法的権利を認めるべきでしょうか。
シェリーは怪物の視点から語られる物語において、彼が本質的に「悪」ではなく、周囲の人間社会からの虐待と拒絶によって復讐へと駆り立てられていく過程を詳細に描いています。これは、AIがその設計や学習データ、あるいは人間とのインタラクションによって、予期せぬ行動や「悪意」を発現しうる可能性を示唆しており、その責任がAI自身にあるのか、それともそれを生み出し、環境を提供した人間側にあるのかという問いを提起します。怪物の復讐は、創造主の責任放棄がもたらす悲劇的帰結であると同時に、被創造物が自己の尊厳を求める究極的な手段として解釈することも可能でしょう。
科学技術の進歩と人類の倫理的限界
『フランケンシュタイン』は、科学技術の進歩が無制限に進むことの危険性について深く考察しています。ヴィクターは生命の神秘を解明し、超越することに熱中しますが、その行為がもたらす倫理的、社会的、心理的影響についてはほとんど顧みません。この無謀な科学的野心は、現代社会における技術的特異点(Singularity)の議論や、遺伝子工学、クローン技術、そして宇宙開発といった分野における倫理的限界の議論と重なります。
小説は、知識そのものの善悪ではなく、それを扱う人間の倫理観と責任感の欠如が悲劇を生むことを示唆しています。ヴィクターの失敗は、知識が力であると同時に、制御されなければ破壊的な結果を招くという警告です。これは、AIが持つ膨大な可能性と同時に、それが悪用されたり、適切に管理されなかったりした場合の壊滅的な影響を予見するものです。シェリーは、単に科学を批判するのではなく、科学者が自身の創造物と社会に対して負うべき道徳的責任を強調していると読み取ることができます。
結論:現代社会への問い直し
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を現代のAI倫理の視点から再考することで、この古典が持つ驚くべき現代性と普遍性が浮き彫りになります。ヴィクター・フランケンシュタインと彼の創造物の関係性は、AI開発者とAIシステム、さらには人間と非人間の生命体との関係性における倫理的問いの原型として機能します。創造主の無責任な放棄が被創造物の苦悩と社会の破壊を招くという構図は、現代の我々がAIの創造と運用において直面する倫理的ジレンマ、すなわち「誰が責任を負うのか」「被創造物の尊厳をいかに守るのか」「科学技術の進歩にどこまで倫理的制約を課すべきか」といった問いへの深い示唆を与えます。
本稿で提示した解釈は、先行研究における『フランケンシュタイン』の多様な読解に、現代のテクノロジー倫理という新たな次元を加えるものです。これにより、読者の皆様が自身の研究において、古典文学が現代社会の喫緊の課題に対し、いかに深く、かつ具体的な洞察を提供しうるかという視点を発展させる一助となれば幸いです。今後、AIの進化が加速する中で、『フランケンシュタイン』は単なる文学作品としてではなく、私たちの未来を形成する上で不可欠な倫理的対話を促すテキストとして、その重要性を増していくことでしょう。